Pearly King [フォトエッセイ]
2002年、イギリスでは年間を通して、 Golden Jubilee(女王陛下即位50周年)のさまざまなイベントが各地で開催された。
そのひとつの会場に現れたこの人たち、仮装をしているわけではない。
これが、”Pearly King”と呼ばれている彼らの伝統的な正装なのだ。
彼らはチャリティイベント、洗礼、結婚式、葬儀で、正装としてこのスーツを着用する。
その起源は1875年。
ロンドンの下町サマーズタウンの孤児院で生まれ育ったヘンリー・クロフトは、13歳の時、孤児院を出てマーケットの道路清掃員の職を得る。そこで彼が仲良くなったのが、過酷な労働条件で働いていた、Costermongerと呼ばれるマーケットの売り子たち。貧しいながらも気風がよく、お互いに助け合って生きている彼らの姿に感動したヘンリーは、自分も不幸な境遇にある人々を助けることはできないかと、募金活動を決意。しかし、目立たなければ、たくさんの募金を集めることはでいない考えた彼は、ズボンやジャケットのスソ、帽子の縁に貝(パール)ボタンを縫いつけるのが流行していた当時のCostermongerたちのファッションにヒントを得、マーケットの掃除をしながら拾い集めた貝ボタンを自分のジャケットやパンツや帽子に縫いつけた。孤児院で育った彼にはデザインの素養も、裁縫の知識もなかったが、さまざまな意味を込めたデザイン(ハト=平和、 ハート=チャリティ、クロス=信仰など)を自分で考え、独学で裁縫を学び、縫いつけていった。
それを身につけて募金活動を始めたヘンリーに友人のCostermonger28家族が 賛同、ヘンリーに習って、それぞれに思い思いの衣装を手作りし、ヘンリーの活動を手助けした。
やかて、貝ボタンを縫いつけた衣装でヘンリーに協力する家族の首長は”Peariy King”、夫人は”Peariy Queen”と呼ばれるようになった。
この衣装、多いものだと3万個ものボタンが縫いつけてあり、30kg以上の重さがあるそうだ。
彼らの目的は「チャリティ」。
その存在がこれほどまで有名になっても、クルマは使わない。数10kgもある衣装を身につけていても、移動はチューブだ。
1930年、ヘンリーが68歳で亡なるまでに集めたお金は5000ポンド以上、 今日の貨幣価値に換算すると、約20万ポンド(1ポンド=150円とすると約3000万円)と言われている。もちろん、そのすべては養護施設や病院に寄付された。そしてその活動は、ヘンリーの曾孫娘をはじめとする”Pearly Family”によって今も継承されている。
ちなみに、Pearly Kingの歴史について改めて調べていたところ、貝ボタンは1860年代に日本か入ってきたと書かれている英国のサイトがあったが、おそらくこれは間違い。1860年代と言えば、江戸末期~明治初頭。日本はまだ着物の時代だ。
いろいろ調べてみたが、この時代に日本で「ボタン」が作られていたという記述を見つけることはできなかった。
ただ、19世紀後半~20世紀初頭、欧米で高級ボタンとしてもてはやされていた貝ボタンの材料であった白蝶貝の大部分は西オーストラリアの沿岸で採取されており、これを採取するための潜水夫として活躍していたのは、出稼ぎの日本人だったそうだ。元来、海で魚や貝を採って暮らしていた日本人は高度な潜水技術を持っており、日本人ダイバーは、他国人ダイバーの何倍もの水揚げ量を誇る働きをしていた。最盛期の明治18年(1886年)には、5000人以上の日本人出稼ぎダイバーが西部・北部オーストラリアにいたらしい。
これはこれで興味深い話だ。
そのひとつの会場に現れたこの人たち、仮装をしているわけではない。
これが、”Pearly King”と呼ばれている彼らの伝統的な正装なのだ。
彼らはチャリティイベント、洗礼、結婚式、葬儀で、正装としてこのスーツを着用する。
その起源は1875年。
ロンドンの下町サマーズタウンの孤児院で生まれ育ったヘンリー・クロフトは、13歳の時、孤児院を出てマーケットの道路清掃員の職を得る。そこで彼が仲良くなったのが、過酷な労働条件で働いていた、Costermongerと呼ばれるマーケットの売り子たち。貧しいながらも気風がよく、お互いに助け合って生きている彼らの姿に感動したヘンリーは、自分も不幸な境遇にある人々を助けることはできないかと、募金活動を決意。しかし、目立たなければ、たくさんの募金を集めることはでいない考えた彼は、ズボンやジャケットのスソ、帽子の縁に貝(パール)ボタンを縫いつけるのが流行していた当時のCostermongerたちのファッションにヒントを得、マーケットの掃除をしながら拾い集めた貝ボタンを自分のジャケットやパンツや帽子に縫いつけた。孤児院で育った彼にはデザインの素養も、裁縫の知識もなかったが、さまざまな意味を込めたデザイン(ハト=平和、 ハート=チャリティ、クロス=信仰など)を自分で考え、独学で裁縫を学び、縫いつけていった。
それを身につけて募金活動を始めたヘンリーに友人のCostermonger28家族が 賛同、ヘンリーに習って、それぞれに思い思いの衣装を手作りし、ヘンリーの活動を手助けした。
やかて、貝ボタンを縫いつけた衣装でヘンリーに協力する家族の首長は”Peariy King”、夫人は”Peariy Queen”と呼ばれるようになった。
この衣装、多いものだと3万個ものボタンが縫いつけてあり、30kg以上の重さがあるそうだ。
彼らの目的は「チャリティ」。
その存在がこれほどまで有名になっても、クルマは使わない。数10kgもある衣装を身につけていても、移動はチューブだ。
1930年、ヘンリーが68歳で亡なるまでに集めたお金は5000ポンド以上、 今日の貨幣価値に換算すると、約20万ポンド(1ポンド=150円とすると約3000万円)と言われている。もちろん、そのすべては養護施設や病院に寄付された。そしてその活動は、ヘンリーの曾孫娘をはじめとする”Pearly Family”によって今も継承されている。
ちなみに、Pearly Kingの歴史について改めて調べていたところ、貝ボタンは1860年代に日本か入ってきたと書かれている英国のサイトがあったが、おそらくこれは間違い。1860年代と言えば、江戸末期~明治初頭。日本はまだ着物の時代だ。
いろいろ調べてみたが、この時代に日本で「ボタン」が作られていたという記述を見つけることはできなかった。
ただ、19世紀後半~20世紀初頭、欧米で高級ボタンとしてもてはやされていた貝ボタンの材料であった白蝶貝の大部分は西オーストラリアの沿岸で採取されており、これを採取するための潜水夫として活躍していたのは、出稼ぎの日本人だったそうだ。元来、海で魚や貝を採って暮らしていた日本人は高度な潜水技術を持っており、日本人ダイバーは、他国人ダイバーの何倍もの水揚げ量を誇る働きをしていた。最盛期の明治18年(1886年)には、5000人以上の日本人出稼ぎダイバーが西部・北部オーストラリアにいたらしい。
これはこれで興味深い話だ。
伝統という名のまやかしは
女王陛下の思考まで狂わしていましたよね。
僕が訪ねたとき、1980年代後半には
伝統は化石になっていましたよ。
by こうちゃん (2009-06-13 00:54)
とてもいいお話ですね^^
目頭がちょっと熱くなりました
出逢いと感動と希望ですね^^)
by moo (2009-06-13 22:54)
>こうちゃん、
”日の沈まない国”の威光は、第二次世界大戦後、急速に衰え、1960年代、英国が世界に誇れるものは、ビートルズくらいになってしまいました。
でも、英国はいまだにコテコテの階級社会なんですよねぇ。
これは、日本人には理解不能です。
>mooさん、
ありがとう!
不幸な境遇の自分を嘆くのではなくて、
自分より酷い環境で一生懸命生きている人もいる
ってことを知ること、そして自分に何ができるかを
考え、実行すること、なかなかできないと思います。
教えるのではなく、ひとりひとり気づくことのできる世の中になるといいですね。
>jon_boviさん、
NOBUさん、
lemonさん、
こまっちゃん、
c_yuhkiさん、
shinさん、
どーもっす!
by cjLEWIS (2009-06-14 21:33)
>Znさん、
どーもっす!
by cjLEWIS (2009-06-16 00:35)